教科書と追想。

汚れつちまつた悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる

【汚れつちまつた悲しみに《山羊の歌》より】著:中原中也

 

幼い頃を振り返ると、その視点の違いにふと驚かされることがあります。

澱の無い子供の視点であったものが、気付けば180°がらりと、形も色すらも変えて見えてくることが多くなりました。

筆者は最近、そんな感傷に揺り動かされる機会が多くなってきたような気がします。

それは社会に出て、物事の本質とやらを幾度となく目にすることが増えたからでしょうか。

 

中原中也は、大正から昭和にかけて活躍した詩人です。

幼い頃から家業である医者になることを期待されたものの、愛する弟の死によって文学の道へと進み始めた中也。

そんな彼が、どんなことを胸に秘めながら詩を書き続けていたのか……。

その理由は、当事者である中也本人以外には知り得ません。

しかしながら、彼が遺した詩は今も語り継がれ、今日を生きている人々の手に渡り続けています。

 

筆者が初めて中也の詩を目にしたのは、小学生の頃でした。

教材はこの冒頭にもある、【汚れつちまつた悲しみに】です。

第一印象は、「ただただ悲しい詩」と言ったところでしょうか。

 

汚れた悲しみ。……

 

当時筆者にとっても、その他の同級生たちにとっても、悲しみは悲しみ以外の何物でもなく、いやなことをされて悲しい、とか、

大好きだった友達が転校してしまって悲しい、だとか、

そういうわりかし実質的な、理由ある悲しさの中にしか身を置いていなかったと思います。

ですから「汚れてしまった悲しみ」などという漠然とした風合いの言葉に理解など出来ようはずもなく、けれども、

「あぁ、この人はとにかく悲しいんだな」

と、分からないなりに感じたりしたということを覚えています。

 ……とはいえ、大人になった視点でなら理解できるのかと言われれば、またそうでもないのですが。

かの文豪、芥川龍之介が死の直前に遺した言葉。

「僕の将来に対するただぼんやりした不安」

こういった、ある種の理由の分からない不安や絶望感に近いのだろう。

と、今の筆者はそう自説を立てています。

 

中原中也の詩の特徴的なところは、その殆どが直接的な表現で書かれていないことだと思います。

どんなに詩を読みこなしても、中也の感情、その本質には触れることができない。

しかしながら、そこが中也の詩の良さなのだろうとも筆者は思っています。

掴めない文脈の、その間隙に込められた余韻。

これは筆者の読書好きが高じているのかもしれませんが、文章を書く上で余韻は大きな意味を持っていると言っても過言ではないでしょう。

だからこそ中也の詩は、暗いものが多いながらも不思議と、口ずさみたくなるようなフレーズが多い気がします。

 

「汚れつちまつた悲しみに」

 

「あゝ 疲れた胸の裡《うち》を

 桜色の 女が通る 女が通る」

……口ずさんでみたくなりませんか?

 

教科書でさらりと通り過ぎただけなのに、後々に至るまで身体のどこかに残り続ける詩もなかなか珍しいのではないかと思います。

言うなれば中也の詩は、飴玉のようなものではないかな……などと。

(飴玉で済ませられるほど内容は軽やかではないのですけれどね。)

耽美で流麗な文章であるからこそ、舌の上でいつまでも転がしておきたくなるのかもしれません。

中原中也の世界観、手に取って味わってもらえたら、中也好きの筆者としては嬉しい限りです。

 

 

後書きのようなものとしてそえておきます。

 

久しぶりの投稿になりました。

なかなかコツコツと投稿することができず、固定の読者なども得にくい筆者のブログではありますが、少しでも目を通していただける方がいてくだされば嬉しいなと思います。

では。