空と人生と。

たったいま死んでいい という言葉が思い浮かぶ瞬間があって

そう口に出さずにいられないほどの強い感情があったとしても

その言葉通りに本当にその場で死んだ者がいるかどうか

               【夜のミッキー・マウス 《五行》より 著:谷川俊太郎新潮文庫)】

 

その界隈では有名な詩人、川俊太郎さんの著作の一つ、「夜のミッキー・マウス

谷川俊太郎さんの魅力は、なんといっても言葉選びのセンスにあるだろう。

詩は小説と違い、短いセンテンスでどれだけのことを伝えられるかが大切になってくる。

抽象的過ぎると誰にも伝わらず、情景描写が多ければ本当に伝えたいことが見えなくなる。

もしかすると、詩を書くことは小説を一つ書き上げるよりも難しいものなのかもしれないとさえ思う。

それを谷川さんは、なんなくやってのける。

言葉は単純で、誰だってわかるものばかり。

それなのに何故、谷川さんの紡ぐ言葉たちにはこれほど、切実さとはかなさが組み込まれているのだろう。

 

谷川さんの作品には、人間のことを描写したものが多い。

作品を読んでいると、谷川さんは人間社会の風刺に近い作品が多いのに、その根底は人間への好意で満ちているように思うのだ。

傍から見れば堕落したような人間の描写も、谷川さんの手にかかれば「非常に人間らしい人間」として読者の目に映る。

憎みきれない、愛さざるを得ない人間。

そんな人間像を描ける貴重な人間が、谷川俊太郎という詩人だと筆者は思う。

 

閑話休題

 

タイトルにある、一眼レフと空と人生の話をしよう。

筆者は、空を撮るのが好きだ。

例えそれが平日であろうが休日であろうが周囲に人が居ようが居るまいが関係なく。

空の、あの引きこまれるような色味と模様。

筆者が空にカメラを構えるのは、主に晴れた時が多い。

例えばこれ。

 

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当時住んでいたマンションの上階から撮ったものだ。

陽の沈む直前の、黄金色に反射する雲

山と雲と空と、グラデーションを描いているかのような色彩。

美しいものに惹かれるのは、社会人になってから色彩の欠けた景色ばかりに身を置いているからかもしれない。

 

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これは仕事関係で長崎に行ったときに撮ったもの。

山々の間に見える海と、陽の差しこみ具合が美しく、カメラを向けた。

空を写真に収めるのは、簡単なようでいて、難しい。

自分が「今」撮りたいと思ったもの、「今」という概念の難しさ、とでも言おうか。

カメラを向けた時にはもう、望む景色は過ぎ去ってしまっていたりもする。

だからこそ、自分の撮りたいものが撮れた時の喜びは一際大きい。

 

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筆者にとって空とは、雲ありきのものなのかもしれない。

雲があるからこそ、空は単調ではなく幾重にもその形を移ろわせることができる。

美しいからこそ、それははかないものによって作り出されている。

そんな風に思ってしまうのは、筆者の感傷だろうか。

 

筆者にとって風景を切り取ることは、筆者自身がその場に生きた証だと思っている。

生きていたからこそ、収められた風景。切り取ることのできた時間。

「生」や「死」について考えることが多いからこそ、時の移ろいや一瞬を鋭く感じることができているのかもしれない。

痛みや苦しみを簡単に手放すことは出来ないのがこの世の中の普遍的な事実だからこそ、人は幸せや喜びを見出すことに必死になるのかもしれない。

 

実は、冒頭でお借りした谷川俊太郎さんの詩には、続きがある。

 

――だが喃語《なんご》にまで溶けていかずに意味にどんな意味があるというのか

言葉の死が人を生かすこともある という言葉が思い浮かぶ

 

人間の行動のおおもとになっているものは、「生」

例えば本当に苦しくて堪らなくて、自ら死を望んだとしても、安らかで心地よい生があればきっと誰だってその道を選ぶだろう。

だいぶ感傷的になってしまったが、

そんなことを深く考えされられる、今日この頃である。

 

脚注:

夜のミッキー・マウス 著:谷川俊太郎新潮文庫